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詩の街ゆざわ2023 第12回短歌募集入選作品決定!

小町と短歌

小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の最南端雄勝町小野字桐木田)で生まれました。
たいそう美しい娘で、幼い頃より歌や踊りはもとより、琴、書道なんでも上手にできるようになり13歳の頃都にのぼり、小町は都の風習や教養を身につけました。
その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けました。
しかし、小町は36歳にして故郷恋しさのあまり宮中を退き、生地小町の里に帰りました。そして小町は庵を造って閑居し、歌にあけ歌に暮らしました。

小町と深草少将

小町が突然京から姿を消したので、どうしたことかと心を痛めていたのは深草少将でした。風の便りに小町が出羽の国に居ると聞いて、少将は小町に逢いたさのあまり、その筋へお願いし郡代職として、はるばる小町の生地小野の地へ東下りをしました。
小町の里にたどりついた深草少将は、平城長鮮沢にある長鮮寺(天台宗)に住み、御返事橋のたもとの梨の木の姥を雇って、小町との逢瀬を夢に描いて恋文を送りました。この恋文を見た小町は、次の一句をもって返事にしたのです。

忘れずの 元の情の千尋なる 深き思ひを 海にたとへむ

 この返歌をもらった少将は、小躍りして喜び、早速面会を求め、小町を訪れました。ところが小町は少将と会おうともせず柴折戸を閉じたまま侍女を使い、「あなたがお送り下された文のように、私を心から慕って下されるなら、西側の堀の向こうの高土手に、わたしが幼い頃、都にたつ時植えていった芍薬があります。それが不在中に残り少なくなって悲しんでいるのです。だから、あの高土手に毎日一株ずつ芍薬を植えて、百株にしていただけませんか?約束どおり百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えさせました。

小町と芍薬

少将は、この返事を聞いて、百日とは待ち遠しいことではあるが小町を慕うあまり、梨の木の姥にいいつけて野山から芍薬を掘り取らせて、植え続けることにしました。そしてあけてもくれても毎日一株ずつ植えては帰って行くのです。
小町は、こうした少将の後姿を

かすみたつ 野をなつかしみ 春駒の 荒れても君が 見え渡るかな

と、口ずさみ見送っていました、この頃小町は疱瘡を患っていたのです。

面影の かわらで年の つもれかし たとひ命に かぎりありとも

と、嘆き憂いていた時ですから、少将が百日も通う頃には、疱瘡も治ることだろうと、密かに磯前(いそざき)神社(現桑ケ崎)にある寺田山薬師寺如来の社に日参し、寺の傍にある清水で顔を洗って一日も早く治るようにと祈っていました。
こんなこととは露知らず、深草少将は一日もかかすことなく、99本の芍薬を植えつづけました。 
そして、いよいよ百日目の夜を迎えました。この夜は、秋雨が降り続いたあとで、森子川にかかった柴で編んだ橋はしとどぬれていました。しかし少将はこんなことに驚かず「今日でいよいよ百本」小町と晴れて会える日が来たのだと、今までの長い辛苦の思いも消え去り、歓喜の胸がにたぎりました。
少将は、従者が「今宵はお止しになっては」との諫言もきかず、「百夜通いの誓いを果たさずば」と、99日夜も通い慣れた路であるとて、百本目の芍薬をもって小町へ通いました。
しかし、降りしきる雨の中この願いは届かず、少将は不幸にも橋ごと流されみまかってしまいました。
小町は、これを聞いて、日夜なげいていましたが、これではならじと月夜に船を漕ぎ出し、少将の遺骸を森子山(現在の二つ森)に葬り、供養の地蔵菩薩を作り、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬には99首の歌を詠じ、名を法実経の花といいました。

実植して 九十九本(つくもつくも)の あなうらに 法実(のりみ)歌のみ たへな芍薬

そして少将の假の宿であった平城の長鮮寺には、坂碑を建てねんごろに回向しました。その後小町は岩屋堂に住み、世を避け香をたきながら自像をきざみ92歳で

いつとなく かへさはやなん かりの身の いつつのいろも かはりゆくなり

と、辞世を残して亡くなりました。

※湯沢市雄勝観光協会・小野小町遺跡保存会発行「小野小町」より抜粋
※毎年、6月第2日曜日とその前夜に開催される小町まつりでは、「小町逢瀬の図」と称し深草少将との恋物語を光と音により幻想絵巻を演出します。小町の代表的な和歌を交え、最後には七小町が登場しクライマックスをむかえます。